1 武士の近代
廃藩置県により、前田家は東京へ去り、金沢県を経たのち石川県が置かれます。 明治政府は、西欧の文明を取り入れることで近代社会に生まれ変わろうと改革を進めます。 身分的な特権を奪われたかつての武士の一部は、西南戦争や紀尾井町事件などの士族反乱を起こしました。 しかし、大多数の武士たちは官吏や教員、実業家や商人などの職に転じたり、北海道の開拓事業に取り組んでいきました。
廃藩置県により、前田家は東京へ去り、金沢県を経たのち石川県が置かれます。 明治政府は、西欧の文明を取り入れることで近代社会に生まれ変わろうと改革を進めます。 身分的な特権を奪われたかつての武士の一部は、西南戦争や紀尾井町事件などの士族反乱を起こしました。 しかし、大多数の武士たちは官吏や教員、実業家や商人などの職に転じたり、北海道の開拓事業に取り組んでいきました。
前田家の文化政策によって発展した工芸技術は、維新後、衰退を余儀なくされます。 明治政府は、資本主義育成のために殖産興業政策を展開します。 県下でも、兼六園内で博覧会が開かれ、銅器会社や工業学校なども創設されます。 その際、工芸品などを輸出産業として奨励する政策は、「美術工業」と呼ばれました。 藩政期以来の蓄積を背景とした地場産業の振興は、県下の殖産興業の特徴の一つといえます。
兼六園は江戸時代の代表的な大名庭園ですが、明治維新以降は近代化の諸施設が置かれた都市公園としての性格を深めました。 1871(明治4)年、與楽園の名称で一般の入園を許し、翌年からは石川県が常時開放しました。 当時の兼六園は学校が管理し、薬草が植えられ実用的に利用されていたようです。 ついで、太政官通達にもとづく国指定の公園として、1874(明治7)年から正式に開放され、名称も開化の象徴として「兼六公園」となります。 その後、「兼六園」の旧称に復すのは、1924(大正13)年でした。 明治3年には、園内山崎山の麓にドイツ人のお雇い外国人教師デッケンのための洋館が建てられ、石川県最初の異人館として知られました。 また、洋食をはじめた料亭酔紅館、公立では全国初の工業学校の創設など、兼六園は文明開化の舞台でもありました。
日本は欧米の強国に追いつくため、経済を発展させて、軍隊を強くすることをめざします。 1894~95(明治27~28)年の日清戦争では、金沢の歩兵第七連隊が出兵しました。 その後の軍備拡張で、第九師団司令部が置かれ、金沢は「軍都」としての役割を強めていきます。 1904~05(明治37~38)年の日露戦争では、第九師団が出兵し、日清戦争とは比較にならない多数の死傷者を出しました。
大正から昭和初期にかけて、人びとの権利を求める運動が盛んになりました。 1918(大正7)年の米騒動はその画期で、県下でも能登の各地や金沢、松任などで発生しています。 さらに、金沢出身の政治家・永井柳太郎は選挙権の拡大を訴え、支持者は立憲青年党を結成します。 その頃、県都金沢は市街鉄道工事で拡張された大通りにモダンな建物が建ちならび、カフェー文化や映画を楽しむ人びとで賑わいました。
戦争の長期化は県民にさまざまな影響を与えました。 1940(昭和15)年、贅沢品の製造・販売禁止をうたう七七禁令が施行され、繊維業や伝統工芸が主体の県下の産業は大打撃をうけます。 一方、人的被害は兵士だけにとどまらず、県外の軍需工場に徴用された人びとにもおよびました。 空襲への備えとして、金沢や小松、七尾で家屋の強制疎開が行われましたが、県下は空襲による被災はほとんどなく終戦をむかえます。
終戦とともに第九師団が解体され、連合国軍は石川県へも進駐しました。 復員や引揚者が故郷に戻り、多くは生活難に追い込まれました。 こうした時代における第2回国民体育大会の開催や新制大学の設置は、戦後の平和を象徴する出来事です。 また、1950(昭和25)年の朝鮮戦争は県下にも影響を与え、米軍試射場をめぐり内灘基地反対闘争が起き、全国の注目を集めました。 その後、日本は高度経済成長の時代に入ります。