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常設展

城下町金沢の暮らしと町並み模型

1 加賀藩の成立

加賀藩の歴史は、1581(天正てんしょう9)年に藩祖前田まえだ利家としいえ織田おだ信長のぶながから能登一国を与えられたことに始まります。 その後、豊臣とよとみ秀吉ひでよしから拝領した北加賀二郡・越中三郡、関ヶ原の戦い後に得た南加賀二郡を加え、その領地は百万石を超えました。 前田家は、幕府との良好な関係を築きながら、家臣団の再編や城下町の整備、独自の農村政策を展開し、江戸時代約260年の長きにわたって統治を続けました。 前田家は外様大名にあたりますが、将軍家と姻戚関係を結び、幕府内で徳川御三家に準じる待遇を受けました。

2 加賀藩政の展開

6代前田まえだ吉徳よしのりの死後、吉徳の御居間おいま坊主ぼうずから人持組ひともちぐみ(3800石)へと破格の出世を遂げた大槻おおつき伝蔵でんぞうは、吉徳の側室真如院しんにょいんと密通していたとして越中五箇山に流刑になりました(加賀騒動)。 加賀藩ではこの頃から藩財政が悪化し、政治的に不安定な状況が続きます。 財政立て直し策として1755(宝暦ほうれき5)年には銀札と呼ばれる紙幣が発行されますが、かえって経済の混乱を招くことになりました。 藩内部では祖法「改作法」に立ち返るべきか、産物方さんぶつかた政策など新しい方策によって状況を打開すべきか、議論を重ねながら政策を展開していきました。

3 幕末の加賀藩

1827(文政ぶんせい10)年、13代斉泰なりやすの正室に11代将軍家斉いえなりの娘溶姫ようひめを迎え、前田家と幕府との関係はより強固なものとなりました。 尊王攘夷論が高まる中、藩内でも尊攘派の動きが見られるようになりますが、禁門の変後の加賀藩は、第一次長州征討や水戸天狗党の西上問題に関わり、幕府の命に従って派兵しました。 1867(慶応けいおう3)年10月の大政たいせい奉還ほうかんの後、翌年正月3日に始まった鳥羽とば伏見ふしみの戦いでは、前田家は徳川方として出兵します。 しかし、徳川方が敗北し「朝敵」となると徳川支持の方針を断念し、「皇国」のために尽くすことを宣言しました。