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常設展

堅田館模型

1 武士の世へ

源平争乱を経て成立した鎌倉幕府は、守護に国内の武士を統率させ、地頭に土地の支配を任せました。 加賀国井家荘いのいえのしょう内に位置する堅田かただやかたあと(金沢市)の発掘調査では、大量の生活資料や建物跡などが見つかり、当時の武士の豊かな暮らしぶりを伝えています。 しかし、鎌倉幕府の滅亡後、京都で生じた南北朝の対立は地方にも波及し、加賀・能登はふたたび動乱の時代へと突入していきました。

2 信仰の世界

白山・石動山に代表される古くからの山岳信仰が隆盛をきわめる一方で、鎌倉時代には新たに禅・法華・念仏の教えが人びとに受け入れられ、発展していきました。 越前永平寺から伝わった禅の教えは武士層に広まり、法華の教えは能登の羽咋、加賀の三谷を中心に信仰圏を形成しました。 また、湊や主要な交通路を拠点に活動していた時衆が念仏の教えを広めますが、一向宗が盛んになるとしだいに記録から姿を見せなくなります。

3 一揆の時代

室町幕府内の政治的対立により起こった応仁の乱は、下克上の風潮に拍車をかけることになりました。 各地の戦国大名が領国経営を進める中、加賀では一向宗の坊主・門徒たちが「百姓ノ持タル国」と呼ばれる一揆体制を築き上げ、能登では守護畠山氏が在地の武士を束ねながら一国を統治しました。 しかし、上杉謙信や織田信長の侵攻をきっかけに、加賀・能登の情勢も大きく転換しました。